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しんがり(殿)とは?意味・語源から金ヶ崎の退き口、現代の使い方まで

 株式会社しんがり 編集部

森の狭い山道で、最後尾の殿部隊が追撃を防ぎ、奥へ撤退する本隊を守る図
全軍の退路を支える、最後尾の部隊。本ページの図版は理解を助けるためのイラストです。歴史上の陣形・人物・地形、実際の社員・職場やドラマの場面を厳密に再現したものではありません。図を拡大 ↗

しんがり(殿)とは、退却する軍の最後尾で敵の追撃を防ぎ、本隊の撤退を助ける役割、またその部隊です。転じて現在では、列や順番の「一番最後」、あるいは仕事の後始末を最後まで受け持つ人を指す言葉としても使われます。

味方が必死に退いていく、その一番後ろで戦いながら退く。しんがりは、一人の英雄ではなく、全軍を守るために働く部隊です。

このページでは、意味と語源から、金ヶ崎・島津の退き口、競馬や仕事での使い方、書籍・ドラマまでを図解します。この言葉を社名に選んだ私たちが、名前に込めた思いもお伝えします。

目次 — 気になるところから読む
  1. しんがり(殿)の意味
  2. 語源と漢字の由来
  3. 戦国時代のしんがりの役割
  4. 金ヶ崎の退き口と木下藤吉郎
  5. 島津の退き口
  6. 現代の使われ方と例文
  7. 書籍・ドラマに描かれたしんがり
  8. しんがりに学ぶ仕事観
  9. 社名「しんがり」に込めた思い
  10. よくある質問

01しんがり(殿)の意味

しんがりには、大きく2つの意味があります。

1つ目は、本来の軍事用語としての意味です。戦いに敗れて退却するとき、軍の最後尾に残って敵の追撃を防ぎ、本隊を安全に逃がす部隊や役割を「しんがり」と呼びます。全軍が背を向けて逃げるなかで、ただ一隊だけが敵に向き直って踏みとどまる。討ち死にの覚悟が要る、極めて危険な任務でした。

先頭、本隊、最後尾のしんがり部隊が左へ進む、森の道の隊列図
先頭・本隊・しんがりの位置関係。最後尾の部隊が、後方から来る敵に備えます。図を拡大 ↗

2つ目は、そこから転じた日常語としての意味です。行進や隊列、順番などの「一番最後尾」を指します。「しんがりを務める」といえば、列の最後を受け持つこと。運動会のリレーの最終走者を指して使われることもあれば、競馬では最後方を走る馬を「しんがり」と表現します。さらに、組織のなかで目立たずに後始末や裏方を引き受け、最後まで踏みとどまる人を指す比喩としても使われます。

読み方は「しんがり」。漢字では「殿」と書きます。「殿様(とのさま)」の「殿」と同じ字ですが、読み方も意味の成り立ちも異なります(詳しくは次の章で解説します)。

英語では「rear guard(リアガード)」が最も近い訳語です。rear は「後方」、guard は「守り」。まさに「後方の守り」であり、日本語のしんがりと同じ発想の言葉です。ラグビーやサッカーで最後尾を守る選手を指す言い方にも通じます。

【例文】「登山では、経験者がしんがりを務めるのが基本だ」「彼はプロジェクトのしんがりとして、最後の一件まで対応を続けた」「人気馬はしんがりからの追い込みに賭けた」

似た言葉との違いも押さえておきましょう。順番の最後という意味では「トリ」(寄席で最後に高座に上がる真打ちに由来)や、リレーの「アンカー」(綱引きで最後尾に立つ錨役に由来)が近い言葉です。ただし、トリやアンカーが「最後を飾る花形」の色が濃いのに対し、しんがりは「危険や負担を引き受けて全体を守る」という守りのニュアンスを含むのが特徴です。

意味・語源の参照:国立国会図書館 レファレンス協同データベース(図書館による辞書調査)

02語源と漢字の由来 — なぜ「殿」と書くのか

「しんがり」という音は、「後駆(しりがり)」が変化したものとされています。「後(しり)」はうしろ、「駆(が)り」は駆けること。つまり「後ろを駆ける者」という意味の古語「しりがり」が、時代とともに音が変わり「しんがり」になりました。

一方、漢字の「殿」は読みを表す字ではありません。「殿」という漢字には、古くから「軍の最後尾」「列の最後」という意味があります。中国語では今でも最下位・最後尾を「殿軍(でんぐん)」と呼びます。この「最後尾」という意味を持つ「殿」の字を、日本語の「しんがり」に当てたもの、つまり意味を借りた当て字です。

後駆(しりがり)から音が変化してしんがりとなり、最後尾の意味を持つ殿の字で表す流れ
音の由来は「後駆」。表記には、最後尾の意味を持つ「殿」を用います。図を拡大 ↗

「殿様」の「殿(との)」は御殿(建物)に由来する敬称で、しんがりの「殿」とは意味の系統が異なります。同じ字が「との」「どの」「でん」「しんがり」と何通りにも読まれるのは、漢字の意味の広さと日本語の当て字文化が重なった結果といえます。

まとめると、「音」は後駆(しりがり)から、「字」は最後尾を意味する漢語の殿から。2つの由来が合流してできたのが「殿(しんがり)」という言葉です。

関連する言葉もあわせて覚えておくと便利です。「殿軍(でんぐん)」は、しんがりを務める部隊そのものを指す漢語で、現代でも「殿軍を務める」の形で新聞などに登場します。また、退却時に備えてあらかじめ後方に配置しておく部隊は「後備え(あとぞなえ)」と呼ばれました。しんがり・殿軍・後備えは、いずれも「後ろを守る」という同じ発想から生まれた言葉の仲間です。

参照:「殿」と書いて「しんがり」と読む語源についての図書館調査

03戦国時代のしんがり — 最も危険で、最も名誉ある役割

戦(いくさ)のなかで最も難しいのは、攻めることではなく退くことだといわれます。撤退する軍は敵に背を向けるため反撃ができず、隊列は乱れ、士気は下がります。追う側にとっては、これほど討ち取りやすい相手はいません。歴史上、撤退戦で大将が命を落とした例は数多くあります。

「勝ち戦は誰でも戦える。難しいのは負け戦だ」と昔からいわれるのはこのためです。追撃で崩れた軍は、戦闘での損害よりもはるかに大きな被害を出すことが珍しくありませんでした。だからこそ戦国の世では、攻めの武功と並んで「退き口の見事さ」が武将の評価を大きく左右したのです。

森や狭い橋で殿部隊が連携し、追撃を防ぐ、時間を稼ぐ、本隊を逃がす三つの任務を果たす図
目的は、その場で勝つことではなく、本隊が退くための条件をつくることです。図を拡大 ↗

この最悪の局面で本隊を守るのが、しんがりです。しんがりの任務は大きく3つありました。

1つ目は「追撃を防ぐ」こと。最後尾で敵に向き直り、攻撃を受け止めます。2つ目は「時間を稼ぐ」こと。橋や峠などの地形を活かして敵の足を止め、本隊が距離を稼ぐ時間をつくります。3つ目は「本隊を無事に逃がす」こと。しんがり自身の生還は二の次です。

つまり、しんがりは負け戦の損害を一手に引き受ける「捨て身の役割」でした。だからこそ、誰にでも任せられる仕事ではありません。敵を食い止める武勇、少数の兵をまとめる統率力、そして何より、味方を最後まで見捨てない責任感。しんがりに指名されることは、死地に送られることであると同時に、「お前になら全軍の命を預けられる」という大将からの最大級の信頼の証でもあったのです。

しんがりを見事に務め上げた武将は、その後大きく取り立てられることが少なくありませんでした。その代表例が、次に紹介する「金ヶ崎の退き口」です。

しんがりの戦い方にも工夫がありました。ただ逃げ遅れて戦うのではなく、退いては反転して斬り込み、また退いては弓や鉄砲で足止めをする。橋を落とし、道を塞ぎ、ときには本隊がまだ近くにいるように見せかける。少ない兵力で「追うのは損だ」と敵に思わせる、知恵と度胸の総力戦です。

では、どんな武将がしんがりに選ばれたのでしょうか。第一に、寡兵で敵を止める武勇と戦術眼。第二に、退き際の乱れた兵をまとめ直す統率力。第三に、恐怖に流されない胆力。そして意外に重要だったのが「政治的な信頼」です。しんがりは本隊と離れて単独で行動するため、裏切ればそのまま敵に寝返ることもできてしまう。だからこそ、大将が心から信じられる者にしか任せられなかったのです。

04金ヶ崎の退き口 — 木下藤吉郎のしんがり

順風満帆だった朝倉攻め

敦賀・金ヶ崎から、琵琶湖の西側の朽木越えを通って京都へ退く経路の模式図
敦賀・金ヶ崎から朽木越えを経て京都へ向かう、退路の位置関係。図を拡大 ↗

元亀元年(1570年)4月、織田信長は3万ともいわれる大軍を率いて京都を発ちました。狙いは、越前(現在の福井県)の朝倉義景。将軍・足利義昭の名で上洛を求めても応じない朝倉氏を討つため、徳川家康の軍勢も加えた堂々の出陣でした。

緒戦は圧勝でした。織田軍は敦賀に攻め込むと、天筒山城を一日で落とし、続いて金ヶ崎城を開城させます。このまま朝倉氏の本拠地・一乗谷へなだれ込むかに見えました。

「浅井長政、裏切り」— 袋のねずみになった信長

そこへ、信長の耳を疑う報せが届きます。北近江の浅井長政が裏切り、朝倉方についたというのです。

浅井長政は、信長が妹のお市の方を嫁がせた義理の弟であり、固い同盟相手のはずでした。しかし浅井家は、信長と結ぶ前から朝倉家と深い誼(よしみ)を持っていました。「織田か、朝倉か」の選択を迫られた長政は、古くからの盟友を選んだのです。

この裏切りで、戦況は一変します。前方には朝倉の本隊。そして帰り道にあたる南の近江には、浅井の軍。織田軍は敵地の奥深くで、前後を挟まれる形になりました。まさに「袋のねずみ」です。全軍でどちらかに突破を仕掛ければ、もう一方から背中を突かれる。かといって留まれば、兵糧が尽きるのを待たれるだけ。3万の大軍が、まるごと壊滅しかねない絶体絶命の状況でした。

信長の決断は、驚くほど速いものでした。撤退。それも、全軍を順に退かせる余裕はないと見るや、自身はわずかな供回りだけを連れて先に戦場を離れ、琵琶湖西岸の山道を抜ける「朽木越え(くつきごえ)」で京都へ走りました。土地の領主・朽木元綱の協力を取り付けての、命がけの脱出行でした。京都へたどり着いたとき、供の数はわずか10人ほどだったと伝えられています。

殿を志願した男、木下藤吉郎

城に続く狭い森の道を殿軍が守り、その背後から本隊が退却していく金ヶ崎の退き口のイラスト
木下藤吉郎らの殿軍が追撃を受け止め、本隊の退却を支えます。図を拡大 ↗

しかし、大将が離脱しても、3万の軍勢がそのまま消えるわけではありません。誰かが最後尾に残り、朝倉軍の追撃を食い止めなければ、撤退は総崩れになります。

この死地を引き受けたのが、木下藤吉郎——のちの豊臣秀吉です。藤吉郎は金ヶ崎城に踏みとどまり、池田勝正や明智光秀らの部隊とともに殿軍を務めたと伝えられています。追ってくる朝倉勢を相手に、退いては反転して食い止め、また退く。橋を落とし、道を塞ぎ、少ない手勢で「追えば損をする」と敵に思わせながら、本隊が近江を抜けるための時間を稼ぎ続けました。そして任務を果たすと、自らも兵をまとめて京都へ生還したのです。

当時の藤吉郎は、百姓の出から成り上がってきた新参者で、織田家譜代の重臣ではありません。家柄ではなく働きで大将の信頼を勝ち取り、全軍の命運がかかる最後尾を引き受けて、生きて帰った。この金ヶ崎のしんがりは、藤吉郎の名を一気に高めました。のちに浅井攻めの功で北近江を任され、長浜城主へ。足軽から天下人へと駆け上がる出世物語の、最初の見せ場が金ヶ崎だったのです。

その後の信長と、語り継がれる逸話

九死に一生を得た信長は、わずか2ヶ月後の同年6月、態勢を立て直して姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を撃ち破ります。裏切りからの大逆転劇の裏には、金ヶ崎で軍を守り切ったしんがりの働きがありました。

なお、この撤退戦には有名な逸話も残っています。浅井長政のもとに嫁いでいたお市の方が、両端を紐で縛った小豆の袋を信長に送り、「袋のねずみになりますよ」と暗に知らせたという話です。史実かどうかは定かではない後世の俗説とされていますが、金ヶ崎の危機がどれほど紙一重だったかを、今に伝えてくれる物語です。

舞台となった金ヶ崎城跡は、現在の福井県敦賀市にあります。麓の金崎宮(かねがさきぐう)とあわせて、この撤退戦ゆかりの地として今も多くの歴史ファンが訪れています。そして私たちは、この「金ヶ崎の退き口」の物語から社名をいただきました。

参照:敦賀市「金ヶ崎城跡と周辺の城跡ガイド」、敦賀市「豊臣兄弟とゆかりの地 敦賀マップ」(PDF)、福井県観光連盟「金ヶ崎城跡」

05もう一つの退却戦、「島津の退き口」

戦場のど真ん中に取り残された島津隊

島津の退き口を題材に、森の退路で鉄砲隊が追撃を止め、その間に騎馬の本隊が先へ進む図
追撃を足止めする兵と、その間に退却を続ける本隊。島津の退き口を支えた働きです。図を拡大 ↗

しんがりの物語として金ヶ崎と並び称されるのが、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでの「島津の退き口」です。

天下分け目の関ヶ原で、薩摩の島津義弘は西軍に属していました。しかし本戦では戦機をつかめず、およそ1,500の島津隊はほとんど戦わないまま戦況を見守ります。そして小早川秀秋の寝返りをきっかけに西軍は総崩れ。気づけば島津隊は、勝ち誇る東軍数万がひしめく戦場の、ほぼ中央に取り残されていました。

普通に考えれば、道はふたつ。降伏するか、後方へ逃げるか。しかし義弘が選んだのは、そのどちらでもありませんでした。

前へ逃げる — 敵中突破という決断

島津隊が向かった先は、なんと敵の正面。徳川家康の本陣の目の前を横切るように、東軍のただ中を突っ切って戦場を離脱するという、前代未聞の撤退でした。退路を敵に予測されるくらいなら、誰も予想しない方向へ突き抜ける。「前へ逃げる」この決断は、後世「島津の退き口」として語り草になります。

突破する島津隊には、徳川四天王に数えられる井伊直政や本多忠勝らの精鋭が追いすがりました。ここで島津隊が見せたのが、「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる壮絶なしんがり戦法です。

捨て奸は、退却する本隊から少人数の兵が切り離されてその場に残り、追っ手を銃撃で足止めし、文字どおり全滅するまで戦う。その間に本隊は距離を稼ぎ、追いつかれれば、また次の一隊が残る——これを繰り返す戦法です。しんがりの中でも最も苛烈な、命を順番に差し出すような退き方でした。この銃撃で井伊直政は負傷し、追撃の手は緩みます。しかし島津側の代償も大きく、義弘の甥・島津豊久をはじめ多くの将兵がこの撤退戦で命を落としました。

数十人の生還が守ったもの

戦場を抜けた島津隊は、伊勢路から堺へ出て、海路で薩摩まで撤退します。1,500ほどいた将兵のうち、義弘とともに薩摩へたどり着いたのは80人前後だったと伝えられています。

損害だけを見れば、壊滅に近い数字です。しかし「敗軍の中から大将を生きて連れ帰った」という事実は、島津の武名を天下に轟かせました。戦後、家康は島津への処分に慎重になり、島津家は敗軍の側にいながら領国を安堵されます。しんがりを務めた者たちの犠牲が、島津家そのものを守ったのです。

金ヶ崎の藤吉郎も、関ヶ原の島津も、状況も時代も異なります。それでも共通しているのは、「最後尾に立つ者の覚悟が、全体を生かす」ということ。しんがりという言葉の重みは、こうした歴史の場面に裏打ちされています。

参照:鹿児島県観光連盟「勝利に酔う家康も慌てた島津の『退き口』」

06現代の「しんがり」の使われ方

現代の日本語では、しんがりは主に4つの場面で使われます。

【1】列や順番の最後尾:「しんがりを務める」の形で、行進・行列・発表の順番などの一番最後を指します。宴会の余興や紅白歌合戦のような舞台で「大トリ」に近い使われ方をすることもあり、この場合は「最後を締める大役」というポジティブな響きになります。

登山の最後尾、競馬の最後方、行列の一番最後、仕事の後始末という現代の四つの用例
同じ言葉でも、単なる順番を示す場合と、役割への信頼を込める場合があります。図を拡大 ↗

【2】登山・アウトドア:登山のパーティーでは、先頭(トップ)と並んで最後尾(しんがり)が重要な役割です。遅れるメンバーが出ないか、全体に目を配りながら歩く必要があるため、しんがりは経験豊富なメンバーが務めるのが基本とされています。ここには「一番後ろ=一番頼れる人」という、本来の意味がそのまま生きています。

【3】競馬:レース中に最後方を走ることを「しんがり」と表現します。「しんがり追走」といえば最後方からレースを進めること、「しんがり負け」といえば最下位でゴールすることです。実況や競馬newsで日常的に使われるため、現代で「しんがり」という言葉に触れる機会として、実は最も多いのが競馬かもしれません。

競馬にはもうひとつ、「しんがり人気」という言い方もあります。出走馬の中で最も人気がない(単勝オッズが最下位の)馬のことです。しんがり人気の馬が勝てば大波乱。「しんがり人気の逃げ切りで馬券は大荒れ」といった使われ方をします。走る位置の「しんがり(最後方)」と、人気順の「しんがり(最下位)」。競馬では2つの意味で日常的に登場する言葉です。

【4】組織・仕事の比喩:目立つ先頭ではなく、最後に残って後始末や裏方を引き受ける人を「しんがり」と呼ぶことがあります。撤退するプロジェクトの残務を最後まで処理する人、閉店する店を最後まで守る店長、システム移行の旧環境を支え続ける担当者。「勝ち戦」では脚光を浴びない役割ですが、しんがりがいなければ組織は安全に「退く」ことができません。

「しんがり」と似た言葉の使い分け

順番の最後を表す言葉は他にもありますが、ニュアンスが少しずつ違います。「トリ」は寄席で最後に出演する真打ちに由来し、「最後を飾る花形」。「アンカー」はリレーの最終走者で、「勝負を決める切り札」。「ラストバッター」は単に打順の最後。これらに対して「しんがり」は、危険や負担を引き受けて全体を守るという、守りと責任の色が濃い言葉です。

使うときの注意はひとつだけ。「殿」と書いた場合、文脈によっては「との/どの」と読まれてしまうことです。ビジネス文書やWebの見出しでは「しんがり」とひらがなで書くか、「殿(しんがり)」と読みを添えると誤読を防げます。

【現代の使い方・例文】「打ち上げの幹事として、店を出るまでがしんがりの仕事だ」「撤退が決まったサービスのしんがりを務め、最後のユーザー対応までやり切った」「本命馬はスタートで出遅れ、しんがりからの競馬になった」「隊列のしんがりはリーダーの田中さんにお願いします」

07書籍・ドラマ『しんがり 山一證券 最後の12人』

「社員は悪くありませんから」— 100年企業の突然の幕引き

暗いオフィスの一角で、複数の社員が書類の調査に取り組む、現代のしんがりのイメージ
会社の最後に残り、調査と清算に向き合う人たち。現代のしんがりという役割を表しています。図を拡大 ↗

「しんがり」という言葉を現代によみがえらせたのが、ジャーナリスト清武英利さんのノンフィクション『しんがり 山一證券 最後の12人』(講談社・2013年刊)です。

題材は、1997年11月の山一證券の自主廃業です。山一證券は、野村・大和・日興と並ぶ「四大証券」の一角を占めた、創業100年の名門でした。その巨大企業が、ある日突然、自ら店を畳むと発表したのです。約7,600人の社員とその家族の生活が、一夜にして宙に浮きました。廃業発表の記者会見で、社長が涙ながらに叫んだ「社員は悪くありませんから!」という言葉は、この年を象徴する場面として今も語り継がれています。

破綻の裏には、経営陣が長年隠し続けた約2,600億円もの簿外債務がありました。損失を帳簿の外に隠す、いわゆる「飛ばし」。それは一般の社員たちのあずかり知らぬところで積み上がり、会社もろとも社員の人生を巻き込んで崩れ落ちたのです。

再就職を捨てて、会社に残った人たち

会社が消えると決まれば、誰もが次の職を探します。当然のことです。ところが山一證券には、あえて残る道を選んだ社員たちがいました。業務監理本部などに属する社員たち——のちに「最後の12人」と呼ばれる人々です。

彼らが引き受けたのは、割に合わない仕事でした。ひとつは、自分たちの会社がなぜ潰れたのか、簿外債務の真相を社内調査で解明すること。もうひとつは、顧客の資産を返し、会社をきちんと畳む清算業務を最後までやり遂げることです。給料の保証もキャリアの得もない。それどころか、調査で経営陣の不正を暴けば、証券業界での再就職はかえって不利になりかねません。

それでも彼らは資料の山をめくり、関係者を訪ね歩き、破綻の真相を社内調査報告書にまとめ上げました。社員たちが会社の破綻の理由を知り、問題を明らかにするための仕事でした。

現代のしんがりとして

読売新聞の社会部記者出身である清武さんは、この人たちの姿を丹念に取材し、負け戦の最後尾で味方を守る「しんがり」になぞらえました。会社の消滅という究極の撤退戦で、一部は給与も出ないまま最後尾を守り抜いた人たち。本書は高く評価され、第36回講談社ノンフィクション賞を受賞します。

2015年には、WOWOWの「連続ドラマW」枠で『しんがり〜山一證券 最後の聖戦〜』としてドラマ化されました(主演:江口洋介)。書籍とドラマを通じて、「しんがり」は戦国時代の言葉から、現代の組織で最後まで責任を果たす人を指す言葉として、広く知られるようになったのです。

戦国の殿(しんがり)と、現代のサラリーマン。時代は400年離れていても、「最後に残って、みんなのために踏みとどまる」という姿は重なります。この本が多くの読者の胸を打ったのは、どんな組織にも「しんがり」が必要だと、誰もが知っているからかもしれません。

書籍・作品情報:講談社の書籍紹介、WOWOWの番組紹介

書籍『しんがり 山一證券 最後の12人』を見る(Amazon)↗

08しんがりに学ぶ、現代の仕事観

しんがりという言葉が今も生きているのは、この役割が現代の仕事にも通じるからだと思います。

組織には、先頭に立つ人だけでなく、最後尾を引き受ける人が必要です。新しい挑戦ができるのは、失敗したときに撤退を支えてくれる人がいるから。前線が思い切って戦えるのは、背中を守ってくれる人がいるからです。

しんがりに任じられた武将が「信頼の証」としてそれを受けたように、後始末や裏方を引き受けられる人は、実は組織で最も信頼されている人でもあります。目立つ手柄ではなくても、「あの人が後ろにいてくれるなら大丈夫だ」と思われること。それは、どんな時代にも変わらない、仕事人としての一つの到達点ではないでしょうか。

身近な仕事に置き換えれば、しんがりはこんな役割です。リリース前夜、最後にもう一度全ページを確認する人。イベントが終わったあと、会場に残って忘れ物と原状回復を確かめる人。プロジェクトが解散しても、引き継ぎ資料を最後まで書き上げる人。派手さはなくても、「終わり」の質を決めるのはいつもしんがりです。そして終わりの質は、次の始まりの質につながっていきます。

09社名「しんがり」に込めた思い

株式会社しんがり(https://shingari.jp/)は、2008年の設立にあたって、この言葉を社名に選びました。由来は、本ページでも紹介した「金ヶ崎の退き口」。負け戦の最後尾に踏みとどまり、味方を守り抜いた木下藤吉郎のしんがりです。

Webサイトの仕事は、公開した瞬間が最も華やかです。しかし本当に大切なのは、その後です。日々の更新、データの管理、トラブル対応、成果が出るまでの改善。私たちは「作って終わり」ではなく、クライアントの一番後ろに立ち、サイトが動き続ける限り支え続ける会社でありたい。前に立って脚光を浴びるのはクライアントであり、私たちはその背中を守るしんがりでいたい。社名には、そんな仕事観を込めています。

前へ進むクライアントの車を、後方からWeb制作とシステム開発のチームが支える理念図
クライアントが、前へ。私たちは、その事業を動かす土台を支えます。図を拡大 ↗

現在の株式会社しんがりは、自動車業界に特化したWebサイト制作・システム開発の会社として、日本最大級の自動車メディアの開発・運営支援から、自動車販売店の集客支援までを手がけています。「作って、動かし続ける」という創業以来の姿勢は、社名とともに変わっていません。

私たちの仕事における「しんがり」は、たとえばこんな場面です。公開後のサイトを毎日監視し、不具合の芽を先に摘む。大型メディアのデータ移行で、旧システムを最後まで安全に見送る。キャンペーンが終わったページをきちんと閉じて、次に活かす数字を残す。どれも脚光は浴びませんが、この「後ろの仕事」の積み重ねが、クライアントが安心して前に進める土台になると信じています。

「しんがり」を使った表現集

しんがりを務める:列や役割の一番最後を受け持つこと。最も基本的な使い方。

しんがりを承(うけたまわ)る:武家言葉の名残があるやや古風な言い回し。時代小説などで登場。

しんがり負け:競馬などで最下位に終わること。

しんがり人気:出走馬の中で最も人気薄であること。

殿軍(でんぐん):しんがりを務める部隊。硬い文章で使われる。

後備え(あとぞなえ):退却に備えて後方に置く部隊。しんがりの親戚にあたる言葉。

10しんがり(殿)についてよくある質問

Q1. しんがりの意味を一言でいうと?
退却する軍の最後尾で追撃を防ぎ、本隊の撤退を助ける役割、またその部隊です。転じて、列や順番の一番最後や、仕事の後始末を最後まで受け持つ人を指します。
Q2. なぜ「殿」と書いて「しんがり」と読むのですか?
「しんがり」は「後駆(しりがり)」が変化した言葉とされます。「殿」には最後尾という意味があり、その意味に対応する日本語として「しんがり」と読みます。「殿様」の「との」とは、文脈によって読み方と意味を使い分けます。
Q3. しんがりは英語で何といいますか?
軍の後方を守る部隊という意味では、rear guard(リアガード)が近い表現です。日常の「列の一番最後」を訳すときは、文脈に応じて last などを使います。
Q4. 金ヶ崎の退き口で殿を務めたのは秀吉だけですか?
木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の働きがよく知られていますが、一人だけで追撃を防いだわけではありません。明智光秀らの働きも伝えられており、複数の武将と部隊による撤退支援として捉えることが大切です。
Q5. 株式会社しんがりの社名の由来は?
金ヶ崎の退き口で味方の撤退を支えた殿の姿に由来します。クライアントの事業を後ろから支え、Webサイトの制作後も、運用や改善まで責任を持って取り組む思いを込めています。
Q6. 「しんがり」は、ほめ言葉ですか?
文脈によります。「しんがりを任せれば安心だ」のように信頼や責任感への敬意を表すこともあれば、競馬の「しんがり負け」のように単に最下位を表すこともあります。言葉自体が必ず称賛を意味するわけではありません。
Q7. 金ヶ崎の退き口の舞台はどこですか?
現在の福井県敦賀市です。金ヶ崎城跡と、その周辺が撤退戦ゆかりの地として知られています。

最後尾から、全体を支える。

しんがり(殿)とは、退却する軍の最後尾で味方を守る役割であり、転じて行列の最後尾や、組織で最後まで踏みとどまる人を指す言葉です。音の由来は「後駆(しりがり)」、漢字の「殿」は最後尾を意味する当て字。金ヶ崎の退き口の木下藤吉郎から、山一證券の「最後の12人」まで、しんがりの物語はいつの時代も「最後尾に立つ者の覚悟が全体を生かす」ことを教えてくれます。

先頭に立つ勇気と同じくらい、最後尾に立つ覚悟には価値があります。もしあなたのまわりに、目立たない場所で最後まで踏みとどまっている人がいたら、それはチームで最も信頼できる人かもしれません。

その名を社名にいただいた私たちも、クライアントの一番後ろを守るしんがりとして、今日もWebサイトを動かし続けています。

参考資料・出典

資料確認日:2026年9月14日。歴史の説明は公開資料に基づき、図版は理解を助けるために制作しています。社名の由来と仕事観は、株式会社しんがり自身による説明です。